シュークリーム・愛の試練
木曜日の午後は休診ではあるが、カルテの整理や診断書の作成などで時間が取られ、ゆっくりと骨休めという訳にはいかない。その日も午後4時を過ぎていた。小腹がすいている。「おっ、そう言えばシュークリームがあった。」昨日細君が、お気に入りの店で買ってきたものだ。「このシュークリームいけるのよ。」と言いながら私にも勧める。濃厚でいて、しつこい甘さがない。「さすがだ」。細君は、ビュッフェで、たらふく食べた後で「苦しぃ〜、もうダメ」と言いながら、スイーツは別腹とばかりプチケーキをコンプリートする猛者である。この種の食べ物には造詣が深い。
さてさてと言いながら、冷蔵庫を開けて、箱を持ち上げる。「軽い」。何個買ってきたかは、聞いたかもしれないが失念している。5個か6個か。でもこの重さは1個か2個。さては細君、私に隠れて食べているな。自分がこれからしようとしていることは棚に上げて、舌打ちを打つ。箱をテーブルに置いて、ふと考えた。箱の中が2個なら問題はない。1個頂いて残りは冷蔵庫に戻すだけだ。1個だと私はどうするだろうか? トータルで3個買ったとは考えにくいので、その場合は、やはり細君が1個か2個隠れて食べている可能性が高い。ので、残り1個は私のものであると主張し、その権利を行使するに非難されることはないだろう。しかし、理論的武装をやすやすと素通りして、「おいしいね〜」と嬉しそうにほおばっていた細君の笑顔が蘇る。箱を開けて1個だった時、私の妻に対する愛情が試されるのではないだろうか。夫として私の度量が白日の元にさらされるのではないだろうか?
「君のためなら死ねる。君を心から愛しているんだ。」ドラマや映画の感動的場面でよく聞かれるセリフ。私はいつも鼻白む。「時と場合によるだろう」と。
「あなたに3億の生命保険掛けたから、事故を偽装して死んでちょうだい。お願いね! 私の幸せのために。」そう言われて死ぬバカはいないだろう。だがしかし、救命ボートの残り座席があとひとつ。愛する人を持つ多くの人が、その席を妻や子供、あるいは孫に譲るのではないだろうか。そこで私は、愛情判定の思考実験を考案した。愛しているのかそうでないかを単純に白黒判定するのではなく、どのくらい愛しているかを、ある程度数量的に評価するという画期的なものだ。この恐ろしい思考実験を、世間に発表すべきかどうか、その影響の大きさゆえ、逡巡している私であるが、えーい、ここまで書いたので発表しちゃえ!
さてその思考実験とは。
あなたと、あなたの愛する人の二人は(仮に夫婦としておこう)、狂信的なカルト宗教(クジヒーテ教)に拉致され、その宗教指導者(クジセマール)がこう言う。
「君たち二人のうち一人を生贄として、我がクジヒーテ教の神に捧げる。さあくじを引け!」
箱の中に赤と白のボールが2個あって、赤を引いた方が生贄だという。
結果、あなたが白を引き、妻は赤を引いた。
「白を引いた君はもう自由だ。帰ってよろしい。君の連れのことは諦めてくれ。」
そこであなたが、「ラッキー、じゃあね〜」と手を振って自由の身になるにやぶさかではない潔い人であれば、この先は読まなくて結構。生物学的自己保身能力に長けた正直者として、私は大いにあなたを尊敬するだろう。しかしそうでない人は以下に続く。
あなたは健気にもこう言う。
「どうかお願いです。私が生贄になります。その人を自由の身に!」
クジセマールが答える。
「なかなか殊勝なことを言う。しかしその希望も神の意志に委ねるとしよう。さあくじを引け! 白ならば、そちの希望を叶えてやろう。それどころか二人とも生かしてやる。だが赤を引いたら、二人とも生贄だ。君から先に死んでもらう。くじの途中で怖気ついたら、いつでも辞めていいのだぞ。ひっひっひっ。」
妻が叫ぶ。
「そんなことはやめて!その気持ちだけで十分。あなたを救えるだけで私は幸せ。二人とも死ぬことはないわ。」
あなたは、愛する人の瞳をまっすぐに見つめて言う。
「君のいない世界なんて生きていても意味がない。
さあくじの箱を持ってこい!」
Case1
従者の者たちが先ほどよりやや大きい箱を持ってきた。赤玉が1個、白玉が99個入っているという。すなわち、無駄死にをする確率は1/100だ。99%の確率で、妻を窮地から救い出すことができる。前回のように1/2の確率を覚悟していたあなたは、喜んでくじを引くだろう。運命をカルトの神にではなく、自分の神に託して。成功の確率が99%なら、先ほど「じゃあね〜」といって踵を返した人たちも、戻ってきて、くじにチャレンジするかも知れない。
Case2
従者の者たちは、先ほどの10倍以上の箱を持ってきた。赤玉が9999個で、白玉はわずか1個。自分の命をかけて、助けられる確率はわずかに一万分の1。さああなたはどうするだろう? 耳元で天使が囁く「彼女は、あなたを生かすことで、自分の死を乗り越えようとしている。勝ち目の無いくじで、あなたが先に生贄にされたら、彼女に与える精神的ダメージは想像を絶するものであるはずだ。あなたは彼女を二度殺すことになる。」隣でシニカルな笑いを浮かべて悪魔が嘯く。「なかなかうまい言い訳ですねえ。」先ほどの勢いは急速にしぼんで、あなたは頭を抱え込むだろう。しかし確率論的期待値を冷静に検討すると、おそらくくじは引かないのではないだろうか。
Case1は、自分が無駄死にをする確率がかなり低く、命をかけて妻を救うことの出来るくじを引く場合とすると、Case2は、あまりにも無駄死にをする確率が高いため、くじを引くのを断念せざるを得ない場合ということができるだろう。そう考えると、その両Caseの間で、くじを引くか引かないかが、逆転する「無駄死にをする確率」が存在する。それは赤玉と白玉の数の割合で調整可能だ。例えば、無駄死にの確率が99%でもくじを引くという人もいるだろうし、50%がギリギリのラインとする人もいるだろう。10%でもチョットね〜。という人も当然いる。その確率が、すなわちその人に対する愛情の深さを示すのではないかというのが、この思考実験の理論である。映画クレヨンしんちゃん的ストーリーに、馬鹿げていると一笑にふす御仁もおられるだろうが、置かれた状況を真剣に想像し、対象をいろいろ代えて考えてみると、おぼろげにその確率が見えてくる。怖い、怖すぎる!
その数字がはじき出される前に私はかぶりを振り、安全な場所へ逃避する。この恐ろしい愛情評価システムを考案した私は、愛を定量化するというタブーをついに犯してまうのか?
恐る恐るシュークリームの箱を開ける。手が震えている。2個ある。私は胸をなでおろす。1個を美味しくいただく。なぜだろう、ワインのように熟成が進んだとでもいうのか、昨日より美味しく感じる。空腹のせいかもしれないし、2個あるという心のゆとりがそう感じさせるのかもしれない。「あー美味しかった」そう独り言ちして私は箱を冷蔵庫にしまおうとして手を止めた。
「1個では足りないでしょう?」悪魔が耳打ちする。
ああ何ということだ。私は新たな試練に立ち向かうことになる。前述した愛情評価システムを例に挙げるまでもない。愛の試練とは、なぜかくも残酷なのだろうか。
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